神になった武将関羽

なぜ宗教家でもない1800年前の軍人が、中国全土で今でも厚く信仰されているのか?

将軍関羽は今なお関帝と呼ばれ関帝廟に祀られている。関羽は後漢末期の三国を構成する曹魏、蜀漢、孫呉のうち、蜀漢を建国した劉備に仕える1人の武将に過ぎない。その武将が1800年を経ったいまでも神格化されているのはなぜだろうか。武将が神になるまでの道のりを辿る。

これを紐解くキーワードは「弱い王朝」と「塩」にある。

神格化されたしるし

世界に広がる関帝廟(かんていびょう)

中国最後の王朝「清」の時代には関羽を祀る関帝廟が中国全土に4万ヶ所もあった。日本では横浜中華街や神戸南京町に関帝廟があり、華人社会の中心に鎮座している。

京劇での取り扱いは皇帝と同格

中国の京劇では、神である関羽の役柄はは皇帝と同じく恐れ多いため演じてはならなかった。しかし、あまりの関羽人気のために武人や英雄役の「生」の中でも関羽専用の「紅生」と呼ばれる役が与えられている。

最上級の神号「忠義神武霊佑仁勇威顕開聖大帝」

一応、ひらがなを振っておくと「ちゅうぎしんぶれいゆうじんゆういけんかんせいたいてい」。宋の時代に守護神として国家公認の神となり、清代まで神号の字数が増え続け、神位が上がり続けた。上の神号は清の宣宗皇帝時代に寄贈されたもの。

関羽が神になるまでの道のり

関羽を関帝へと押し上げたのは「三国志」による部分が多い。日本人が描いた三国志といえば吉川英治『三国志』であり、ここでは曹操と諸葛亮を中心に魏呉蜀の三国を見るものであって、関羽は蜀漢劉備の武将にすぎない。一方で、中国では三国志演義の決定版と言われる毛宗崗本『三国志演義』(羅貫中の三国志演義の派生版)を見ると、曹操、諸葛亮と共に関羽を加えた3人を中心に物語が展開されている。関羽を中心に据える三国志が生み出される背景には何があったのか。中国における関帝信仰の歴史を辿る。

信仰の始まりは関羽の死にある

関羽の性格は傲慢でプライドが高かったとも言われているが、「桃園結義」「許田打囲」「降漢不降曹」の逸話が物語るようにあるように忠義心の塊だった。また青龍偃月刀を自由自在に操る最強将軍の1人でもあった。彼の傲慢がゆえに引き起こされたのが樊城の戦い(219年)で、魏と呉の関羽排除連合と関羽との戦いである。ここで関羽は命を落とす。関羽信仰は、この時既に始まっているのである。同219年に関羽を討った呂蒙が病死、その数ヶ月後に曹操も病死、それ以外にも関羽の死に関わった人物が次々と倒れたという。非業の死を遂げた人には強い霊力が宿ると考えられていた当時、関羽は死後も鬼神として恐れられていた。この死のエピーソードが関帝信仰のルーツといえる。

弱い王朝だった宋代に国家の守護神となった関羽

関羽が初めて国家により祀られたのは唐代である。唐の国力が衰えたことを憂いて古今の名将64人が祀られ、関羽はそのうちの武神として祀られた。このとき三国時代の名将では周瑜や諸葛亮なども祀られており、関羽だけが傑出した武神というわけではない。関羽の地位が際立ってくるのが宋代である。比較的軍事力が弱かった宋代の皇帝たちは、北方民族の侵攻に対する軍事力強化を国家の守護神に祈り続けた。大きな軍事行動の度に、関羽に高い称号を与えるようになり関羽は軍事に加護を与える武神として国家公認の神の道を進んでいく。

塩専売人の山西商人が財神と崇めた関羽

宋の時代から始まった関帝信仰は現在も脈々と生き続ける。旧くは武神として、また忠義に厚い人物として崇められてきた。そして現在の関帝廟においては、関羽は商売の神として祀られるこれが武神であり財神でもある関帝の姿である。財神の神となったのは、関羽の出生地に関係する。彼は現在の山西省にある解県(かいけん)で生まれた。ここは古くから中国最大の塩の生産地であった。

塩はSALARY(給与)の語源であるように、古代から貴重な資源であった。大陸国家である中国で塩が採れる場所は限定的で、宋代には既に生産から販売まで国家が管理していた。山西省解県で採れた塩の流通を担ったのが山西商人たちである。宋の時代から塩の売買を営み、明清時代には華北一体を支配するようになり、南方の新安商人と並んで中国商業界の二大勢力となった。

山西商人は商売をする際に、同郷の関羽を守護神として崇拝するようになる。軍事強化のために軍神として宋の皇帝が祀り、時を同じくして同郷の商人たちが財神として祀る。宋代では財政歳出の8割を国防費が占め、歳入の5割を山西商人が担う塩税で賄っていたことから、国家と商人の結び目を関羽信仰が担っていたといえる。

宋の時代が終わっても、山西商人が終わるわけではない。続く元の時代ではモンゴル人第一主義のもと従来の官僚制度は機能せず、経済基盤はもっぱら西域との貿易と塩税に頼ることになり、山西商人のビジネスチャンスは拡大傾向にあった。勢力を増した山西商人は関帝廟を各地に建立し、さらに劇を演ずる舞台としても利用した。そこでは識字率の低い当時にあっては、商人の使用人や民が劇を通じて関羽を知ることとなる。商売繁盛を祈願する財神への信仰は山西商人の繁栄と共に拡大していった。

元代の後、明代においても関羽信仰の勢いは衰えず、明末の農民反乱軍の李自成や、それを滅ぼした清王朝が両者ともに関羽を軍神として祀っている。

『三国志』改ざんとメディア

国家権力と巨大財閥山西商人による関羽信仰は清の時代に全盛期を迎える。この大きな流れは『三国志』を改ざんさせるまでに及ぶ。清代の乾隆帝は中国最大の図書編纂事業を指揮したが、そこで「四庫全書」に収録された『三国志』に手を加えた。『三国志』の原作を改め、人の死後に贈る称号である諡(おくりな)を忠義とした。

この頃、民衆の間では『関帝明聖真経』など関帝のお告げを記す善書(ぜんしょ)が広がりを見せた。これは民衆のための『論語』のようなものであり、善書によって親への「孝」、国家への「忠」、他人への「義」などといった生きていく上での規範となった。人の集まる関帝廟では、この善書の読み聞かせが行われ、字の読めない民衆にも深く広がっていった。こうして関羽信仰は三国志や善書といったメディアを通じて、連綿と続いていくのであった。

清が滅亡し、山西商人は浙江財閥によってその地位を失ったにも関わらず、関帝信仰が今なお続いているのは、こうした民衆を教化する手段としての関帝廟、三国志や善書といった伝播手段が大規模に整っていたことにある。

関帝廟は異郷に暮らす商人達の相互扶助組織の会館として機能し、新たな土地で商売に成功する度に関帝廟を作り関帝を祀った。こうして商人の海外進出に合わせて関帝廟も海外でも建設されていくようになる。これが横浜や神戸の関帝廟である。

いまから1900年前に生まれた1人の武将は、一貫して「義」を重んじた。そして、その義をもってこれまで関帝として人々の心を掴んで離さなかった。「義」を中心に据えた人的ネットワークのおかげで山西商人は世界を相手にしていた。世界各地で中華街が繁栄するのは「義」を重んじた相互扶助の精神であろう。

しかし、資本主義を一部導入した社会主義資本経済が進行中の現代中国において、果たしてその「義」は置き去りにされていないだろうか。いまの中国ビジネスには拝金主義が蔓延っているといえる。関帝はこの現代社会をどう嘆くだろうか。