本をどう読み終えるか、縮約の術

Contraction:

How to read a book

この記事は
読書後の縮約
を推薦する文章です

ショーペンハウアーの言う読書とは「他人の脳で考えること」。しかし、読み終えた途端にその他人の脳は私の手元から離れてしまう。なんとかして他人の脳で考え続けたい。この悩みがこの記事の出発点。

乏しい読了感

あの本、読んだ?うん、読んだ。

に続く言葉が出てこない、こんな経験ありません?確かに読み終えたのだが、その後に続くはずの言葉がなかなか乏しい。良かったよ、悪くなかったよ、楽しかったよ、ボキャブラリーのなさに腹が立つ。1週間もすればその読書は過ぎ去りし遠い昔の話。脳裏に残るのはかすかな著者の名前程度。エビングハウスの忘却曲線にしっかりと沿いながら読書記憶は忘却していく。読書する時間が楽しいのであって、読了感など気に留めない。これもひとつの読書の終え方だ。しかし、1冊の本を読むには、まずその本を探す、出会うという時間を使い、その本を買う金銭的な費用がかかり、そして読む時間を費やす。読書には経済的にも時間的にも負担がかかるわけだから、何も残らない読書というのはもったいない。

半ば強制的に、記憶に残す方法がある。それが縮約である。

 

 

読書のあとに縮約を

読み終わったあとに、何かしらの言葉を育むことはエビングハウスの忘却曲線に立ち向かうことでもある。それは、読んだ情報をアウトプットすることが近道だろう。それが手書きの読書ノートでも、誰かに話すでも、書評でも構わない。そして簡単なようで難しいけど大切なことは、最初から「誰か」を意識したらペンは止まるということ。文字、文法、解釈が間違っているかもしれない、読者からの批判などという余計な邪念がペンを止める。自分自身すら読者像から外し、誰の目にも触れないアウトプットを意識すれば三日坊主は防げる。誰かに披露するアウトプットではないこと、そして読了感がしっかり残ることの2点を意識するなら、

「縮約」が望ましい。

子どもでも大人でもかなりの確率で読了感が増す。個人的な経験から言うと、読了後に縮約した本は確実に記憶に残っている。そして、どうやら縮約が出来るようになると自ずと要約する力も磨かれる。

縮約のルール
  • 原文を用意する(最初は1500文字、原稿用紙4枚、社説1記事程度のものを用意)

  • 原文にある文字、文章だけを使って1/3(仮に400文字)の文章量にまとめなおす。

縮約の意義
  • 本に引かれた線とその取り消し線が増える。つまり本当に重要な論点がどこか明確になる。

  • 要約と違って言い換えは出来ない。語彙力が問われずにアウトプットができるという利点がある。

縮約を試したらわかるが、最初のうちは全体を3,4回ほど読み直すことになる。そこから重要な語句や単語を拾って、文章をつなぎ直す。文字数の制限があるため各文を行き来しながら、使えそうな単語の取捨選択を繰り返す。文章の骨格を壊さずに他人の文章を再構成する。これまでの読書とは全く違った体験ができるはずである。

縮約例

丸山眞男の評論『「である」ことと「する」こと』

岩波新書『日本の思想』(1961年発行)

約5600文字程度の文章を400文字で縮約。ざっと計算して7/100に縮尺していることになる。

請求することをしないで債権者であることに安住していると債権を喪失する。請求する行為によって時効中断しない限り、債権を喪失するというロジックには重大な意味が潜んでいる。憲法第十二条には国民の普段の努力によって自由及び権利を保持しなければならないと記されている。自由になろうとすることによって自由でありうること。民主主義も不断の民主化によって民主主義でありうる。近代精神のダイナミックは「である」から「する」への移動によって生まれた。例えば徳川時代では出生とか家柄が価値判断の基準となっている。
これに対し、会社の組織は「すること」の原理に基づいている。存在理由が仕事の必要から生まれたからで、リーダーの偉さは彼の業績が価値基準となる。日本の近代は「する」ことをタテマエとする組織が「である」社会のモラルによってセメント化されてきた。そこでは日本人が「である」と「する」の中でノイローゼ症状を呈している。